diary

 

ふと、小学生のときの親友のことを思い出した

 

わたしはその子のことが大好きだった。

可愛くて愛想が良く、だからといって媚びすぎずはっきりとした性格で、わたしにはないものをたくさん持っていた。

わたしはその親友が好きなものを全部好きになった。あの頃は意識してそうしていたわけではないけれど、好きな人間が好きなものを自分も好きになりたいという気持ちだったのだと思う。

でも今考えると、それらを本当に好きだったとは言えない。だからと言って好きでもないのに好きなフリをしていたわけではなくて、当時は完全に好きだと思い込んでいた。おそらくその「好き」なものを通して親友と共有する時間がなにより楽しくて、そういう気持ちとそのものに対する気持ちが重なっていたのかもしれない。

わたしは当時から独占欲や嫉妬心が強かった。「自分だけ」という特別感がほしかった。そういうことで何度も悩んでみた。嫉妬は誰でもする。大切な人を独り占めしたいなんて、無理だとわかっていてもちょっとはみんな思うんじゃないかな。なんでも極端なことはマイナスになることが多くて、嫉妬なんてかなり人間味のあることだと思うけれど、度がすぎると醜いとされてしまうものだ。バランスが難しい。人生においてバランス、つりあい、調和、といったものは大事とされている。バランスの良い食生活、つりあいのとれた人間関係、自然との調和。そんな言葉がありふれている。特にそんなことを否定したいわけではないのだが。

 

……

 

いつか忘れてしまうのかな

 

何度ふられても好きな人のことばかり考えている女の話です

 

 

 

 

忘れられない人、忘れられない思い出、忘れてしまいたいこと、忘れたくないこと、

いろんなこと、たくさん抱えていても

みんな平気な顔で過ごしている

 

 

本当に自分以外の人それぞれの人生があるのか、不思議に思うことがときどきある。それぞれ幸せの絶頂にいたり悲しみの底にいたり、朝食はパン派だったり米派だったり、大切な誰かが居たりいなかったり。みなさんは今どんな人生を送っていますか。平気なふりをして生きていますか。元気ですか。

 

 

わたしには大切に思っている人がいる。一つ年上の先輩。きっかけは覚えていないけれど、知り合って半年くらい過ぎてから親しくするようになってそこから加速度的に仲良くなっていった。お互い人見知りだから仲良くなれたんだと言われたことがあった。友達もそんなに多くなくて人見知りで話すのが上手ではないけれど親しくなるとよくしゃべるところ、二人の似ているところだなと思う。

 

お世辞にも性格が良いとは言い難い。いじわるだし短気だし一途じゃないし振り回すし、対するわたしは頑固で意地っ張りだから喧嘩をよくした。ムカつくことばっかりでイライラすることが多かったけれど、それでも嫌いにはならなかった。すぐ仲直りしてまた喧嘩した。

 

そんな人だけど、自分以外のことも真剣に考えてくれるところがある。わたしが落ち込んでいて話を聞いてもらうときは、わたしを信じてくれていることが伝わってくるような言葉をくれる。わたしに不安なことがあるときは、「今度調べておいてあげるね」なんて優しいことを言ってくれた。

わたしは、わたしは、

きみに何かしてあげられているだろうか

 

 

お互いに忙しくて大事な時期、心が弱っていて感情の起伏が激しい時期に、「きみの味方だよ」と言ってくれたこと。「わたしもきみの味方だ」と伝えたこと。今人生の中で大事な局面に差し掛かっているわたしの心を強く支える力になっている。それでも崩れ落ちそうなときがある。無形のものを信じて生きていくこと、それができたら本当に強くなれるのかな。強くないからこそ縋るものだろうけれど。形あるもの、明確でわかりやすいものしか信じられないと思うことが多いけれど、形のないものこそ信じていたい。信じる価値があると思う。

「わたしはきみの味方だよ」

 

 

 

 

 

"僕は君を信じたからもう裏切られることはない

だってもし裏切られてもそれがわからないから

どうか君じゃなくならないで"

 

飴玉の唄/BUMP OF CHICKEN

 

 

 

 

 

よくわからないこと

 

 

いくら考えてもわからないことをつい考えすぎてしまう

学校の図書館で1人になれる場所がある。最上階でこの時期は寒い日でも暖房が入らないくらいほとんど人は来ない。可動式の本棚と数個の机がある。その本棚の整理に司書が来るのと、わたしのような学生がたまに勉強しに来るくらい。大抵の人は階下にある広い学習スペースで勉強している。わたしは最近専らその最上階にいることが多い。いつも座る机(なんとなく、監視カメラの死角になるところを選んでいる)は窓に面していて、その窓からはわたしが所属する学部の建物が見える。そういえば、あの屋上から同級生が飛び降りたんだった。

 

昨年の10月くらいだっただろうか。同じ学科でわたしと出席番号が前後の同級生だった。

その半月ほど過ぎた頃だったと思う。学部長から呼び出しがあり、授業前に話を聞いた。噂にはなっていたから、呼び出しがあったときには見当がついた。みんなはどんな気持ちで聞いているんだろう。そんなことを思った気がする。ちょっとだけ、視界がぼやけた。

その同級生、彼とは同じ学科で約3年を過ごし、しかも出席番号が前後だったからグループワークで同じ班になることが多かった。大人しい人だった。いつも一緒に行動している友人がいた。その人に対しても敬語を使うような人だった。正直に言うとこのくらいしか彼に対する記憶はない。なぜわたしは今彼のことを考えているのか。死んでしまってから興味を持つなんて(興味を持ったと言うと言葉がよくないかもしれない)おかしな話だと思う。もし生きていたら、それまでの印象も特に変わらず、卒業後思い出すこともなく。わたしの人生の登場人物の1人として存在していたという事実があるだけで、特に大きな意味を持つこともなかったと思う。

それなのにわたしは「自ら命を絶った」ことをきっかけに、彼のことを時々思い出し、考えを巡らせる。よくある、有名な芸能人が亡くなったときに今まで特に気にしてもいなかったような人が急にご冥福をお祈りしちゃうようなやつ。わたしの気持ちもそんな感じなのかもしれない。そりゃあ知っている人が亡くなったらみんな少しは悲しくなると思う。先に述べた通り正直親しかったわけでも気にかけていたわけでもなかったけれど、初めて経験した「知り合いの自殺」という事実としてたまに思い出したりわからないことをいつまでも考え続けたりするというだけで、そこに深い意味はない。

やはりどうしても、なぜなのかということが気になってしまう。学校で会う機会がもちろんあったわけだけど、そのときの様子を思い出してみても全然そんな気はしなかったという月並みな感想があるだけだ。それこそ何度も言うように親しかったわけではないから当たり前と言えばそうなんだけれど。推測はいくらでもできるが、もう誰も本当のことを知ることはできない。

それにしても他人のことなんて何もわからない。人に発することはもちろんすべてではない。いつも笑っているあの人にも、ハッキリとものを言うあの子にも、何でも気軽に話ができるようなあの子にも、他の誰にもわからない世界がある。もちろんわたしにも。そんな当たり前のことでも忘れてしまうときがある。自分のことは自分が1番知っているのだから(自分の気持ちがわからないよ…ということもあるが今それは除いて)、「わたしの気持ちなんて君にはわからない」という思いも、「お前はなんでこんなこともわからないんだ?」という気持ちが生まれるのも、当然と言えばそうかもしれない。わからないことというのは怖くて、不安になることだと思う。怖いと感じることは「わからない」に通じていることが多い。心霊現象が怖いのも正体がわからないからで、死ぬのが怖いのも死後の世界についてなにもわからないからだ。わからないことは常にたくさんあって、それらが息を詰まらせてしまうことすらある。すべてわかることなんて無理だとわかっていても、わかりたいと思うことがある。わからないからこそ、人は考えるし、正解にたどり着けなくても、近づこうと努力する。むしろ正解なんてない。そんなことは知っていても人は常に考える。ちょっと話がそれたな

 

最近よく考えることといえば、人はなぜ死んではいけないのか(意図せず同級生の自殺と話が重なる)。もちろんこのことについても正解があるわけではないし、自分なりに答えを出したいと思っているわけでもない。なんとなく、そんなことを考えたくなる夜がある。人は誰しも死にたいと思うくらいの経験があると思っている。

「つらい」と口に出すと、「あなただけが苦しいのではない、同じような思いをしている人は沢山いる。むしろあなたよりつらい思いをしている人なんて山程いる。」と言うひとがいる。わたしはこのよくあるような返答に倦厭する。他人相手なら自分もそう言いかねないところはあるが。

さて、「みんな苦しい思いをすることがある」「もっとつらい経験をしている人がいる」というが、そうならばなぜ、人は生きているのだろうか。あるいはなぜ、人は死んではいけないのか。それほどつらい思いをするのが当たり前の世界に生きる意味は果たしてあるのだろうか。どうせ人はみな死ぬのに。死に向かって生きているだけなのに。そんなことを思ってしまう。ある人が言っていた、「どうせ死ぬなら暴れたほうがいい」と。わたしもそんなふうに思えるときもある。ただ、こんなひねくれた考えをしてしまうのは息の詰まりそうな暗闇の中にいるときであって、そう簡単に抜け出せるものではない。確かにつらい思いをするのと同様に、楽しいことや喜びを感じること、幸せだと思うことは少なからずある。むしろつらい思いをするからこそそれらのプラスの感情はエネルギーを増す。そんなことはわかっている。悲しみがなければ喜びもない、不幸がなければ幸福もない、不自由がなければ自由もない。どこかで聴いた歌詞のようだ。ただ、いくら喜びや幸せを感じても人はいつか死ぬ。それは明日かもしれないし50年後かもしれない。生まれた人間はやがて死ぬということだけが唯一平等に与えられた運命だ。ゴールはみな死で迎えることになっている。どうあがいても何をして生きても人に憎まれても好かれても有名になっても、その運命だけは誰にも変えることができない。これはただの事実だ。みんなが知っている事実。やっぱりそれでもみんな生きている。なんで生きているのかなんてわからなくても生きている。わからないことは怖いことのはずなのに。こんなことを考えている間に死ぬかもしれない。そうしたらやっぱり「もったいない」のか?もったいないって、なにが?死んだのに?

死んだらなにも残らない。生きているあいだにしたこと思ったこと全てが無になる。それは自分にとってだ。自分にとって無になる。というか、死んだら「自分」という概念もなにもないんだけれど。だとすると、死後の「自分」の生きた証というか価値というか、そういったものがあるとするならば、それは他の人のために存在することになる。人はこういうのを命の繋がりと呼ぶのだろう。次の世代へと、命を繋ぐために人は生きているのか?どこまでも繋がった命の行く先は?…

 

なにか答えを出すために考えているわけではないが、結局話のオチのようなものをつけてまとめてみたくなったりしてくる。

「過去」「現在」「未来」

わたしたちが生きているのは今現在なのに、人は過去や未来に囚われている。もちろん悪い意味で囚われるだけでなく、過去が今の力になること、未来が今の希望になること、そういうことも忘れてはいないが。

過去は呪い

過去に囚われるのは呪いにかかっているのだと思う。それは抜け出せない呪い

人はおおよそ経験に基づいて行動しているのだから過去は当たり前に重要になってくる。ただ過去は呪いだと思う。過去の自分のこと、特に後悔したことは忘れられない。そういうことに限っていつまでも離れずに頭に残っている。そして遠く過ぎた今でもまるで呪いのように自分を苦しめるときがある。そういうものだ。

未来に絶望する

今がつらいと未来なんて想像がつかなくて不安でたまらない。眠れない夜の絶望感。明日が来てほしくないと思った夜は何度あったか。そんな孤独な闇に包まれた夜も、眠ってしまえば何事もなかったかのように朝に変わっている。そしてまた同じように暗闇がやってきては、気づくと光が射している。

過去も未来も今の自分にとってそんなに重要じゃないかもしれない。重要じゃないというより、気にしすぎることはない、という感じか。後悔しても結局また同じことを繰り返すし、先が見えない未来もいずれはやってくる。だとすればやっぱり「今」のためだけに生きたいと思う。過去や未来はもちろん完全に無視することはできないけれど、もしそれらに縛られ囚われ苦しみ続けるのならば、そんなものは全て捨ててしまいたい。きっとそうしても忘れることなどできないし、たまにふと思い出すことがあると思う。そんなときは、またその呪いの効果を発揮させないように、「今」と上手に切り離せたらいいのかな。そう簡単にできるかできないかは置いておいて、心にそういった気持ちをもっていられたらいいのだと思う。

結局は月並みなことにまとまってしまったなという感じだ。とりあえず今、目の前のことに一生懸命生きます。

 

diary

 

やりたいことをやるためにはやりたくないことをやらないといけないし、つらいことや後悔は尽きないし、いつだって自分の欠点しかみえてこないし、恋は報われないし、なんで死んじゃだめなのかわからない。